Column

市民という民族衣装

『民族衣装の百年祭』と称した展示会のこの画像は、すべて21世紀も四分の一を消費しようとしている現代からみて、約百年前(1910年代~1930年代)のものを集めたものである。

彼らが着ている服は伝統衣装であり、脈々と受け継がれ、彼らの変化のない生活とともに、長い間変化をしてこなかった衣装である。しかしながらそうは言っても、異文化の流入は少なからずあり、それとともに、インスピレーションを受けた服飾芸術家――たいていは技術と伝統を連綿と受け継ぐ村の女性たち――がさまざまな技巧を凝らして、新たな表現に挑戦していったのだろう。そしてそれらも彼らの伝統に組み込まれ、民族を象徴する意匠へと昇華していった。

中国貴州省ミャオ族のろうけつ染めの下絵(左)|鳥や蝶が描かれた完成品(右)

人は、普段の味気ない日常と祝祭の日とで、着る服にも差を設けていた。日本語ではハレと呼ばれるその日では、普段よりも豪華な衣装の服を着るというのは人の自然な心理なのだろう。

それは今の私たちと同じことである。そのことに少し思いをはせてみると、ある意味で言えば、それは人々の古いしきたりと変わりはない。普段着と、晴れ着。だが、この二つのつながりはかつてとは大きく異なっているように感じる。かつての晴れ着は普段着の延長にあった。二つの種類はともに女性の職人が染め上げ裁断し裁縫し、晴れ着となるものはそこからさらに刺繍で彩り、ハレの日を着飾るものとなるべく仕上げていく。しかし、現代、和服は洋服の延長線上にあるものと考える人はどれくらいいるだろうか。おそらくいないだろう。この二つの間には交通不可能な溝が開いているような観を呈している。それゆえに今日、人々が民族衣装を身に着けていたとしても、それが彼らの生活とともにあるという気がしないのはそのせいなのだろう。日常的に民族衣装を着ている人々が豪華な晴れ着を着ていた場合、着慣れていない感があったとしても、居心地の悪い異物にまとわりつかれているような感じもないし、ましてその背後にあらぬ洋服が透けて見えてくるということはないが、私たちの場合はそうはならず、伝統衣装のコスプレとなってしまう。

ドイツ南部バイエルン地方からチロル地方にかけての民族衣装ディアンドル。普段着られることはないが、オクトーバーフェスと呼ばれるビールフェスにこれを着て集まり、ビールを大量に飲む。

けれども、見方を変えると面白いことが言える。私たちが普段着ている洋服を、西ヨーロッパ地域の伝統衣装と考えてみる場合がそれだ。燕尾服やモーニング、タキシードを着るということはそうそうないことだが、ヨーロッパの社交界では晴れ着として、あるいはそうした文化を受容した明治期の日本でも、そうした場においては燕尾服がよく用いられていた。だとするならば、ここにおいても普段着と晴れ着という差別化はよく図られていことになる。もっとも今日では、あまり着られなくなってはいるし、もとより燕尾服というものを着るのは社会の上層に位置する人々ではあったが。

今日でも中国南西部には、西洋的な洋服とは無縁な生活をしている民族がいる。彼らは伝統に身をつつみ、その手にはスマートフォンを手にしている。結婚することで村から都市へ出、出稼ぎで都市へ出、することで徐々に服装にも変化が出てきている。1世紀前にアマゾンの先住民に疫病が流行し、部族の消滅の危機により今までは生活できたものが苦しくなり、部族ごと街へ出てきたことで、洋服を受容していったが、そこまでドラスティックでないにしろ同じような変化がそこで起こっている。

市民社会が到来し、民族の枠を超えた市民という枠に組み込まれていった彼らは、洋服という民族衣装を手にしていった。貴族、士族、平民といった身分の階梯が消滅し、市民という一大民族を形成していった人類は、もはや衣装で出自を証明する必要はなくなった。それはまた別の困難――生き方を選ぶ自由、服装からでは自分が何者なのかを一切証明できないという――を人類に生み出した。

アメリカ狂騒の20年代(左)|1933年 禁酒法の終焉(右)

自分が何者なのかは市民社会のテーマである。ここに見られるように、民族衣装が出自を決めてくれている生き方をしている彼らのような生活の中からは考え出されなかったテーマだった。ある意味で、私たちは市民という民族衣装を手に入れ、普段着と晴れ着を使い分けている。それは昔と変わらない。だが、別の意味では、私たちは百年前の人たちとは決定的に変わってしまったのだ。

私たちからみた百年と、彼らからみた百年。果たして彼らは洋服を着る私たちを見て、服を着ていると感じるのだろうか。もしかすると裸でいるほうが、服を着ていることになりはしないだろうか。